昭和49年03月19日 朝の御理解
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出て来ておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何んにも言わずに駆けっていぬる。」
要は身勝手な信心ではなくて、神様を中心に、申し上げた所の信心をさせて頂かねばならんとそう言う事を言おう、教えようとなさっておられる様に思うんです。勿論日柄とかの良いの悪いの、と言う様な事を言うと言う事は、まぁおかしな事だと生まれる時、死ぬる時には、それこそ日柄も言わずに生まれて来、死ぬる時には日柄も言わずに駆けっていぬると。そのう生まれてから死ぬるまでのその中と言う物、その中間と言う物を実意を以て生活さして貰う。言うならば本当の生活をさして貰う。
真実の生き方をさして貰う。その真実の生き方をさして貰うと言う事も、どれが本当でどれが嘘だと言う様な事が、実を言うたら解らない。昨日の朝からまた昨夜の月次祭の後に出て来ます御理解から頂きましても、だから問題は、真実から真実を追求して行くという生き方、その中に習慣の様にしておった、例えば日柄方位の問題でもです、そういう生き方は本当ではないと解ったところから、日柄もなければ方位もないという本当の生き方が出来るのですね。そ
れに例えば日柄方位だけの事ではありますまいけれども、そこを教えて貰解りながら、それにこだわったり、それから抜け切れない生き方をすると言う事は、おかしなもんじゃと言う事と同時に、それでは嘘の生き方と言う事になるのだと、信心さして頂く者、誰でも初めは身勝手な事から信心が始まるのです。所謂自分を中心なんです。どうぞ病気が良く成ります様にとかね、商売が繁盛致します様にとか、後は人間関係が悪くて難儀を致しておりますからどうぞ円満なおかげをと言う様に。
まあ自分を中心にした願いから始まって、神様だ仏様だと言うのが大体殆どだと思うのです。だから神様は頼まれ役、氏子は願い役と仰せられるのですからその願いがいけない事ではないのですけれども、神様に願わなければならないとはです。又、神様もそれを喜んで聞いて下さる事の為にはです、いかに願い役と言うても、身勝手な願いで終始したのであっては、所謂嘘の生き方と言う事になるんです。
信心が、だんだん解らして頂くに連れて、言うなら天地の道理が解り、天地の御恩徳を感ずる様になって来る。その天地の御恩徳を感ずる所から、御恩徳に対する、神恩報謝の心と言う物が、自ずと生まれて来る。また自ずとそれが育って行かなければ、私は信心じゃないと思うね。神恩報謝の心を以て、同時に、天地の道理に合う生き方を、いわゆる本当から本当を求めて生活させて頂くというのである。皆さん金光様の信心は、言わば是だけなんですよ。ね。
ですから身勝手な事がいけないのじゃない。お互い身勝手から入るのだけれどもね、まず第一何と言うても、天地の大恩を是程に説いて下さってあるのですから、成程成程と合点すると言う事は、成程成程その御恩徳に対して報いる心と言う物が段々強うなって来る。その強うなると言う事は、神恩報謝の心が強うなって来る。成程「信心をしていれば一年一年有難うなる」と仰る。おかげを頂くから有難いのでもありますけれども、そういう神恩報謝の心が強うなって来ると言う事である。
その神恩報謝の心が段々強くなって来るその強い喜びの心を持ってです、又改めて人間の真実の生き方と言う物を求め求めして行く生き方、いわゆる天地の道理に合うた生き方を色々学ばして頂くのである。その生き方に中にです、問題があるのです。究めて行けば行く程に、昨日のお月次祭の時にも、皆さんに聞いて頂いたんですけれども、信心生活の虚実について、「虚」というのはうそ、「実」というのは実意の実ね、それを私は、親鸞上人様のお言葉をもって聞いて頂いた。ね。
九十三歳ですかねえお隠れになったは、その晩年に至って今まで自分が言うて来たり、踏んで来た事はです、あれは皆んな空言だった。嘘だったと言う。ね。なら今此処に私が本当だと思うておる事もです、もう明日は嘘になるかも解らないと言うのです。と言う程に所謂本当の生き方と言う物は厳しいのです。だから嘘の生き方だから人間が不幸せかと言うとそうじゃなくて、真実から真実を追い求めて行くと言う事、そういう信心姿勢と言う物が、まあー神の気感に適うのでしょうね。もう是だと決まっていない。
私は愈々初めてああい雨事を皆さんに聞いて頂いたんですけれどもね、教祖生神金光大神ですらもです、ね。言わばお隠れになった時点と現在魂の世界、神様の世界での生神金光大神とはお違いになるんだと思う。言うなら最高のまあー信心者の極致とも、理想郷とも思われる教祖生神金光大神の境地と言う物でも、だから生神金光大神と言うても矢張りピンからキリまであるんだと。例えば金光大神とか金光大権現とか言う御神格も、ね。矢張り言わば幾段にも段があるんだと。
しかも是は極まりなくそれを追求して行くと言う事ね、只そこに私共が本当な事が解れば、それだけ本当のおかげが受けられる。より本当な事が解れば、又よりおかげが進展して来る。此処の辺の所がね、信心を進めなければ居られないと言う事になるのです。また極めて行く事の喜びが有る訳です。ね。そういう筆法で行きますとです、親鸞上人様が仰る様にね、世の中の事皆んなが空言だと言う事になる。自分の歩いて来た道も空言だと言う事になる。ね。だからそれは決して空なものになっておる訳ではない。
その言わば時点時点においてですね、教祖金光大神の場合は、それに実証的なものが私共がおかげと言っておるものだとこう思うのです。只信心を熱心にする度合いが段々強くなると言う意味ではなくて、熱心にしなければおられなくなって来るんです。本当の事が解る為に又解って来れば。其処で私共が例えば、その身勝手な信心から、ね。同じ願いでも神様の願いを願いとする信心と言う様な風に変わって来る訳です。だから本当に此処ん所は一つ、本気で解らなければ信心が進展しません。
身勝手な事で終始した信心では、言わば本当の嘘の生き方になりますから、おかげも昨日の朝の御理解じゃないけれども、所謂ね全部嘘になってしまうと言う事です。だから其処は人間凡夫で御座いますから今日只今がね。本当な真実の生き方をさして頂いておる。本当の事を解らして貰ったと言っておるけれども、又勉強をしておる内に又外の違った言わば世界が開けて来る。そうすると其処には又切り替えられた生活がある。
所謂身勝手な信心から、言うなら自分本位の信心から、神様本位の信心、自分を中心とした信心から神様を中心に申し上げる所の生き方をさせて頂くと言う事が、此の六十六節には願われておると思うのです。そう言う事は、言葉の上には出ておりません。只「人間は身勝手な者だ」とこう言っておられるだけなんです。其処でなら身勝手ではない信心に私共がいち早く気付いたら、切り替えなければいけないと言う事。けれども願っておる言葉その者は同んなじなのです。
例えばこの五つの願いなら、五つの願いと言う事はです、只自分を中心にしてあの五つの願い、どうぞ健康であります様に、どうぞ家庭が円満であります様にと、言うて願ってもです、私共のその心がね、神様を中心にする、神様本位にならせて貰う時にです、どうでも健康にならなければ、願わなければおられなく成って来るのです。子孫繁昌家繁昌を願わなければ、おられなく成って来るのです。ね。神願御成就の事の為に、どうでも健康が必要であると言う事に成って来るでしょう。ね。
金銭のお繰り合わせを願うと言うてもやっぱり同じです。商売繁昌を願うと言うても同じです。ただ商売大繁昌の大みかげを頂かせて下さいと。今日は私「合楽に御神縁を頂いておる御信者の皆さんがです、合楽教会と共に同んなじおかげの頂けれる様に、お繰り合わせをお願い申します」と言うお願いをさせて頂いた。ね。言うなら合楽教会が一つの家の様にならなければいけない。合楽教会が億万長者になったら、皆んなが億万長者にならなければいけない。
合楽教会が言うなら家庭円満であるなら、その全部の多くの家庭もそのまま家庭円満の大みかげを頂かなければならん。そういうおかげを頂かして下さい。それにはなら、私が頂いておる今日的な信心、ね。その信心に私は神習う以外にないと思うです。ね。其処で言うならばこういう場合に親先生ならどういう生き方を取られるだろうかと言う事になって来たらです、私の生き方が、何時までも何時も何処でも何時の場合であっても、神様本位の信心であるとするならです。
皆さんも、一緒に神様本位の信心にならなければ、同んなじおかげにはならない。私との流儀が違う。「親先生はそうじゃろうけれども、そんな訳にいかん」と言うたら何時まで経ってもおかげが孤立する。ただ願うた事がおかげになったり、ならなかったりというだけの事である。ね。合楽と共に言わば繁昌して行こうと思うならば、合楽と同んなじ、言うならば合楽という中心である所の、私の心がけと言った様な者を皆さんが勉強して下さらなければならない。
そんなら私の心がけと言う物が素晴らしくて完璧かというと、決してそうではない。今日皆さんに是が本当だとこう説いておってもですね、明日また変わって来るかも知れない。その変わって来た時点で、「昨日あげな子と言いよってから」と言わずに、それにやっぱり素直に入って来るおかげを頂かなければならないと言う事、それが私は真実の生き方だとこう思うのです。同時に身勝手でない生き方だと思うのです。そういう意味で私は、日々、私の言うなら話を聞いて下さってね、それに応じた。
信心をなさらなければならん。言うなら、昨日の御理解の、「天に任せて」と言う事を、ならば、「親先生に任せて」と言う事にならなければならない。ね。それでも今までの生き方とか、考え方が、余りも複雑な間違った考え方をしておるから、スムーズに親先生が考えておられたり、思うておられたりする事に着いていけない。ね。そう取れない所にです、いよいよ地にすがるね、信心を身に付けて行き、お縋りして行かなければならないと言う事なんです。ね。
要はね、お互いが余りにも身勝手な信心をしてはいないか。それは日柄方位だけの事ではない。「氏子はいわゆる勝手な者じゃ」とこう仰る。その身勝手な信心からです、なら身勝手ではない信心を目指すと言う事、それはどう言う事かと言うとね、言うなら、神様の勝手たるべしと言う事なんです。「もう私は、神様あなたの勝手、あなたのお心任せだ」と言う事なんです。ね。
それをならまた、まぁ言葉でいうと今までは自分の中心であった信心がです、神様を中心に申し上げた神様本位の生き方にならせて頂くと言う事だと、ね、其処から極まりなく信心が新たな言わば進展を見て来るのである。所謂神様、言うならば本位の信心をさして貰う。その辺の所がぴったりと行かない。「親先生はああ言いなさるけれども」と言う所には、もう親先生の心と離れておる。「親先生がああ言いなさるから」と言う所にです、其処にぴったりとしたものが生まれて来る。
今日は私此の六十六節から、お互い所謂是はどうしても一つ身勝手な信心からね、所謂神様勝手たるべしという信心に変わらなければならないと言う事です。でなかったら身勝手な信心と言う事は、それは本当に嘘の信心ですからね、昨日聞いて頂きました様にです、いかにも神様にむごい力をお願いしておかげを頂いて、いかにも貯まったごとある。けれどもそれは必ず1辺は又お戻ししてしまわなければならないと言う事です。取り上げられてしまうと言う事です。
そういうおかげは、まあ言うならば、あの世に持って行く何ものもないと言う事です。それではね。だから言葉で言うておること、祈っておる事、例えば、お参りをしておる回数というかね、信心修行さして頂いておる其の事は同んなじでありましても、内容が自分中心か、神様中心かと言う事名んです。ね。ですから、此処の所を一つ翻然と、一つ是は悟らなければ出来ん。言われたから中々にそう出来るもんじゃない。けれども成程自分達の信心が身勝手な信心だから、ね。
言うならば、取り上げられてしもうたと言う事になるのです。ね。おかげは受けても、受けたが受けたになっていないと言う事です。それには一つ、今日此処にある。いわゆる人間は勝手なものじゃと言う事をですね、そういう身勝手な生き方ではいけないぞと教えられておると思うのです。ですから、勝手でない生き方とはというのは、自分のそういう根本的な、信心の根本的な考え方を変えて、いわゆる神様本位にならして頂くという信心に、言うならば切り換えてとでも申しましょうか。ね。
其処には何を願ってもですね、その願いはね、神様の願いと同じ事になって来ると思うんです。昨日のお月次祭にも申しました様に、嘘から出た真とこう、私共の身勝手な信心というのは、言うならば嘘の信心。そういう信心から本当の事が分かって、嘘から出た真と言う事になる。あれは忠臣蔵の六段目ですかね、一力茶屋の場で、お軽が由良之助に言う台詞がありますよね。急に「身請けをする」と由良之助が言う。
其処でお軽がそれを本当にしない。普通ではです、嘘から出た真と言うけれども、「あなたが今言っておるのは、真から出たみーんな嘘、嘘」と言う台詞があります。ね。嘘から出た真ではなくて、真から出たみーんな嘘、嘘と言う事です。けれども、良くよく考えさして貰よりますと、それは同んなじと言う事になるんです。真を以て、真実を以てと思うておるけれどもですね、それがその翌日にはもう嘘になっておる程しに信心と言う物は、更な物を求めて行かねばならない。ね。
所謂今度は、んなら嘘から出た真でもそうです。所謂身勝手な信心は、言うなら嘘の信心から、皆が入信いたします。けれどもそれは決して本当な事ではないけれども、その身勝手な信心もです段々神様が聞き届けて下さって、おかげは受けるけれども、段々判らして頂く事は、天地の大恩であり、天地の道理である。そしてその天地の大恩を感得さして貰う所から、神恩報謝の生活、毎日がね神恩に報謝しまつる生活に進んで行かなければならない。天地の道理が分かったら。
今までの生き方がどんなにそれがもう習慣であっても、そういう嘘である本当でない習慣は一掃して、日柄方位なんかを言うておった生き方を一掃して、ね。天地の道理に合うた生き方をさせて頂かなければならない。ね。其処から所謂嘘から出た、所謂真と言う事になるのではないでしょうか。と言うてなら真から出た皆んな嘘嘘であってね、今日の真はです明日はもう嘘になっておる。ね。そういうほんな同んなじ堂堂巡りのようなことじゃないかと、それこそ親鸞上人ではないけれどね。
世の中の事皆んな空言だから、言わば虚しいものだと言う事では決してないのです。其処に金光様の信心は、い和揺る生き生きとした力強い、所謂天に任せて地に縋る生き方と言う物はです、縋って行く所からね、そのおかげの内容と言う物が変わって来ると言う事である。まあ手っ取り早う言うならです、千円のその日暮しをさして頂いておったものが、次には二千円のその日暮しが出来る様になると言う様にです。
そのおかげの世界が広うなって来るんです。だからいかにも嘘から真、真から嘘と言う様に、こうして行っておってもです、事実のおかげの面が大変な違いになっておりますから、信心は有難く楽しゅうなって来る訳です。ね。どうぞ一つまぁ一つの思い込みと言う事は大事ですけれども、その思い込みもより本当な事が教えられたら、そのより本当の事へすっと入って行くそういう生き方が、言わば天に任せる生き方であり、親先生任せと言う事になると思うですね。
どうぞ。